Look on the Bright Side of Things

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母が亡くなった。

2019年1月4日の午後、母が他界した。ひと月半後の誕生日を迎えることなく、80歳で生涯を終えた。
在りし日の母は陽気で面倒見がよく、誰とでも直ぐに打ち解け、話し始めると止まらなくなるほどのおしゃべり好きな人だった。編物が得意な専業主婦であり、人付き合いが苦手な父に代わり、家業の集金などを手伝いつつ、同居していた祖母も含めて6人家族の家事を切り盛りしていた。
父に一目惚れされるほど器量良しで、俺も幼い頃、友人に「お前の母ちゃん、綺麗やな!」と褒められたことがある。
夫である父が了見が狭くて短気で怒りっぽく、意固地なこともあって母は随分困らされていたようではあるが、子どもの目から見て夫婦仲は悪くなかったようにも思える。両親ともに真面目で堅実な人で、家庭が荒れることは無かった。
ただ、子育てが終わり三人姉弟の末っ子の俺がグズグズのろのろと家を出る頃には、静かに進行していた父のアルツハイマー認知症の影響が、夫婦二人きりで生活することになった母にのしかかってきていた。当初、数年の間は父がアルツハイマーであることが判らず、適切な対処が出来なかったために、感情の制御を失って荒れ狂う父に母は深夜まで罵られたり、暴力を振るわれるなど脅かされて親戚宅に避難することも度々あった。
そのストレスの為もあろうが、もともと家族に供する栄養を考えた食事とは別で、自分が食べるものについては好き嫌いが多く、夕食をお菓子で済ませたり、朝食の食パンに塗ったマーガリンの上に砂糖をまぶしたりして、めちゃくちゃな食生活をしていた母は、やがて父同様に高血圧を患い、身体のあちこちに病を得て幾度となく入退院を繰り返した。
姉や兄よりも実家の近くで住んでいた俺は、その都度、母の救急搬送の際に救急車に同乗した。最後の方は嫌気がさして、二度と同乗はしない(だから健康に気をつけろ)と宣言したが、結局は繰り返すことになった。
両親の介護が始まってからは、病院通いの介助などで毎年の有給を使いきることが多く、これは何気に辛かった。足を引っ張られる思いがして、内心、親を罵っていた。
アルツハイマーの末に2013年に父が亡くなった後、母は長年暮らし慣れた家でヘルパーに助けて貰いながらひとり暮らしをしていたが、骨折したり心不全を起こしたりなどでまた入退院を繰り返し、起居が不自由となっていき、それに合わせて認知症も患うようになった。
俺ら子供には実家であるその家も、数年後に母の失火により全焼してしまった。俺が伴侶を得て、入籍の報告をして程なくだった。母は無事で近隣にも被害はなかったものの、懐かしい写真や衣類、幼い頃に落書きした柱、使い込んだ箪笥などなど、思い出の品々はほとんど失われてしまった。
焼け出されてしまった母は起居不自由のために常に介護が必要であり、火事を起こすような危なっかしい存在を身近に置くことも出来ないため、以降、介護施設で過ごすことになった。
介護施設に入所してからは認知症も進み、かつて送った父のように、徐々に在りし日の面影に変わっていった。
快活でおしゃべり好きだった母。話す内容はどんどん取りとめもなくなっていったが、亡くなる数ヶ月前に、俺の息子を披露しに行った時は涙を流して喜んでくれた。
母と少しでもまともに会話が出来たのはそれが最後となった。
意識レベルがだんだんと下がり、呼びかけに応答を返してくれないことがほとんどとなり、心拍も低下。患っていた高血圧のせいで心臓が衰弱し、循環が弱っていたらしい。
昨年末に入院してからは衰弱して、意識も薄く、死を待つばかりとなった。
年明け、様子見に行こうかと思っていた矢先、危篤の知らせが入り、入院先に急行したものの、末期には間に合わなかった。
父の時と同じく、介護とは長い看取りと思っており、心の整理もついていた。悲しみは殆ど無かった。父の頃から数えて10年間、重しのように乗っかかってた介護が終わるという安堵感の方が大きいのかもしれない。
昨年より育児を始め、我が子を慈しむ眼差しを、かつて両親も俺に注いでくれていたことを、実感を伴って想像出来るようにはなった。しかし、両親の介護は愛情への恩返しなどという気持ちではやっていられなかった。出口の見えない暗いトンネルをとぼとぼ歩き続けるようなものだった。
通夜に備えて納棺のために清められ、化粧を施された母は、苦しむことなく逝ったためか、表情も穏やかで、まるで寝ているかのように見えた。
葬儀が終わるまで、若干の感傷はあったものの、涙を流すことは無かった。母の棺に供された沢山の花々が、華やかで賑やかだった母に相応しく、文字通りの餞(はなむけ)となり、痛ましさがなくなった。
葬儀に参加してくれた、幼い息子の存在も癒しとなってくれた。息子の無邪気さは葬送の沈痛さを軽くしてくれた。子を持つことの有り難さが身に染みた。
荼毘に付された母の亡骸は寝たきり生活の衰弱のためか、バラバラに砕け散っていて、下顎と骨盤の1部のみが塊として残っていた。かつて俺ら姉弟をこの世に送り出すために育んだ揺りかごである骨盤。ありがとう、としかいいようがない。
葬儀が全て終わってから、かつて実家のあった場所を訪れて、在りし日を偲んでみた。
学校から帰ってきて、玄関を開けて「ただいま」を言ったあと、発する言葉は「お母ちゃん、どこ?」だった。俺だけでなく、父や姉、兄もそうだった。母がいなければ、なにも始まらないし、おさまらない。
母は俺ら家族の中心だった。母がいてこその家族だった。
その母は逝ってしまった。生家は三年前に失っていて、文字通りの帰る場所はとうにないのだが、母が居なくなって、本当の意味で帰る場所が無くなったように思う。
もはやどこにも帰れない。でも俺は妻と共に、息子にとっての帰る場所、原風景であらねばならない。かつて母と父がそうであったように。