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父が亡くなった

2013年12月26日 午後9時。父が亡くなった。77歳だった。

2009年に父がアルツハイマー認知症であることが発覚し、その時点で発症後3年程度であった。俺は父があんまり好きでなく、社会人になって一人暮らしを始めてからは疎遠になっていた。介護が始まってからは食事を食べさせたり、散歩に連れ出すなど、今までで一番深く付き合ったかもしれない。
父のアルツハイマーは順調に進行していき、徘徊や昼夜逆転なども症状として現れて、都度都度、悩み、苦しみつつ、ケアマネージャーの力も借りて介護にあたっていた。今年の9月頃より家の中のトイレの場所がわからなくなって、そこらで排便をしてしまうなど介護の負担が重くなってきたため、11月頃に専門の病院に入院させた矢先、肺炎に罹った。もうダメだろうと思ったがそれは完治した。しかし、意識不明の状態に陥って救急救命センターのICUに入った。肺炎に罹患する直前から食事を飲み込むことができなくなっていて、栄養補給は点滴のみだったため、元々糖尿病だった父は輸液に含まれるブドウ糖を処理できなくなって、高血糖状態に陥って意識障害を起こしたものと思われる。
アルツハイマー患者であることもあって胃ろうや気管内挿管は拒否したため、今度こそダメだと思ったが、何と意識が回復。危機状態自体は一旦脱したために、12月頭に通常の病院へまた転院。意識は回復していたが、言葉を発することや体を動かすことも難しく、痩せて衰弱してしまっていた。
この間、仕事や稽古の合間を縫って週2,3回程度、見舞いに行ったりしていた。4年に渡る介護の間、俺はそのペースを崩すことはなかった。まだ父が元気な頃から姉と連携して、週2,3回程度相手することにしていた。すべてを捧げるような真似をしてはならないと思っていたからだ。こちらが潰れてしまっては介護は成り立たない。自分の生活や趣味を損なうこと無く、適当に手を抜くべきなのだ。
介護が始まって以来、俺はずっと生前供養をしているつもりで居た。アルツハイマー認知症は不治、そして確実に死に至る病だからだ。そのため、いざ終末を迎えるにあたっても特に動揺することもなく、ただただ看取るのみだった。
12月26日、仕事納めを翌日に控え、いつもの様に仕事終わりに午後7時半頃、父の病院に寄って、寝たきりで言葉も発せられない父を見舞った。父はその数日前から再度肺炎を発症していて、咳をして苦しそうだった。抵抗力が著しく衰えているのである。スマホで父の好きそうな唱歌を数曲聞かせて慰めてやり「もうすぐ正月やで、早よ、良うなって一緒におせち食べよな。がんばるんやで」と嘘の励ましをした後、立ち去った。父が回復しないことは確実だった。でもそれを説明してもアルツハイマーの父には理解できない。理解して覚悟したとしてもそれを維持することが出来ない。すぐに忘れてしまう。ならば、余計なことは言わなくていい。嘘で慰められて、一時でも気が紛れてくれればそれでいいのである。
翌日の仕事納めを控えて遅めの夕食を摂っていた矢先、姉から父が亡くなったとの知らせを受け、病院に駆けつけた。たった一時間半前まで生きていた父は、看護師の手によって清められている最中だった。一ヶ月近く食事を摂ることが出来なかったため、ガリガリにやせ衰えた姿が痛ましかった。でも、涙をながすほどには悲しくなかった。4年前からずっと供養をしていて、覚悟はできていたからだ。
焼き場の都合で葬式は3日後となり、勤め先やら友人などに連絡を取るなど、いろいろと手配をしているうちに通夜を迎えた。昨今の葬儀では遺体を清めることも儀式的に整えられているようで、湯灌の儀とかいうものに立ち会わされた。俺的にはバカバカしい限りの儀式だったが、清められ、化粧された父の遺体からは若干痛ましさが消えていた。
ドライアイスとともに棺に収められた父の遺体は祭壇の前に安置され、俺が通夜の番をすることになった。通夜式には芸事の師匠、友人が駆けつけてくれた。その暖かさに少しホロリと来た。
葬儀が始まるまでの間、何度か棺の中の遺体を見つめたが、やはり何の感慨もなかった。死体はただの死体。もはや父の名残でしかない。それは認知症が発覚した頃からそうだった。父はどんどん失われていっていた。失われ、薄くなっていく父の相手をしていたころから、これは名残を惜しんでるのだなと感じていて、そうか、父自体が名残になってしまっているのだなと思うようになっていた。
葬儀当日となり、驚いたことに芸事の師匠に通夜式にひき続いて参列いただけた。師匠からは介護が始まった頃に「稽古だと思って取り組みなさい」との言葉を頂いていて、その言葉にずいぶん励まされた。稽古であるなら淡々と取り組むのみ。必ず何かを得ることが出来る。そう思えたからだ。
葬儀の終わりに棺に花を手向けるのが最後の対面となった。泣かないつもりだったけれど、父の額に触れた時、そのあまりの冷たさにどうしようもなく涙が溢れてきて止めることが出来なかった。
霊柩車に棺を納め、親族のみ火葬に立ち会うこととなり、参列してくれた師匠に礼を言うと「がんばったやないか」と言ってくれて、その時も涙が溢れてきた。ずっと、心の何処かで父に対して冷たすぎるのではないか、俺は冷血漢なのではないか、と思っていたのだが、どうもそうではなかったようだ。

火葬が終わって骨を拾っていた時には、もはや父の面影も何にもなく、焼いた後の人間の骨ってこうなるのかーって興味だけ。人間こうなるよっていう、最後の父の教えなのかなと感謝しつつ、骨壷に収めた。骨壷に拾いきれない分は纏められてしまうことを初めて知った。

介護の支援してくれた人、見守ってくれていたご近所の人、通夜と葬儀に参列してくれた人、弔電を打ってくれた人、葬儀の世話をしてくれた業者さん、そして家族。大勢の人に送られたのだから、父は幸せだったと思う。せめてアルツハイマーでなかったら、もう少し違った送り方になったとは思うんだが、そのアルツハイマーになった父の姿を見たおかげで俺は健康に気を使うようになり、多少は人生を良い方向に向けられたと思う。

父さん、ありがとう。さようなら。