Look on the Bright Side of Things

Anderson's Blog - since 2005

足りぬ心

審査が近いので指導にかり出される。別の道場からの生徒さんの具合を見ることに。この生徒さん、根は真面目なんだろうけれど、一生懸命やってる感じがしない。もちろん、技の出来映えも冴えが無く、直さなければならない点が山ほどある。しかし今から直すには時間が足りないので、簡単に直せそうな所から指摘していくが、どうも見てて調子が悪い。
有り体に言えば覇気、あるいは生気がないのだ。こちらの心に響くものが何もない。こちらの指摘に対しても素直に従うものの生返事なので気分が悪くなる。審査を受ける以前の問題である。「受ける気あるの?こんなので段位を得られると思ってんの?」と内心いらだつが、相手は年配の方だし、他の道場の生徒でもあるのでそれを指摘しないままズルズルと時間が過ぎていく。
幸いにして私より高位の先輩がそれを指摘してくれたので、そのあとはずいぶん使い心地が良くなった。最も私の側に問題がなかったわけではなく、対手として彼の覇気・生気を引き出すよう導く使い方をすべきだったのだ。本来指導においては言葉で指摘するのではなく、自得させることが最上である。手本となる私の態度、動きをみさせて、なにが悪いのかを自得するよう考えさせて初めて「お互いにとって」稽古となりうるのである。
さて翌日。こんどは別の流派にて教わる立場である。こちらでは最近になってようやく開かなかった目が開き始めた感を得ている。もちろん、まだまだ出来ていないのだが、出来ているべき姿がだんだんと見えてきた。それはとりあえずの姿だけれども、やっと小さな峰に立てる、という安堵感は得られるであろう。
そこから先にまだまだ登らなければならない、姿形さえ定かでない高峰がズンとそびえている。途中までの登山道と幾つかの峰はかすかに見えるんだが、あるところから先は霞んで見えない。その道がその先にある高峰へとつながっているかどうかすら定かでない。雲を掴むような話だ。