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体罰・指導について

昨年末に大阪市の公立高校で部活動における顧問の体罰などに耐えかねて、部員が自殺したというニュースが有った。体罰について思うことをちょっと書いてみる。

まず、私が学生だった頃(今から30数年〜20年前)、私は体罰をそれほどは受けて来なかった。割りといい子だったこともあるし、恵まれた環境にあったといえるかもしれない。それでも他の児童が体罰を食らっているところはしばしば目撃していた。
特に体育教師や生活指導の教師は頻繁に体罰を加えていた。私はそれを目撃するたびにとても嫌な気分になった。立場的に反撃できない暴力に強い嫌悪と恐怖を感じるのである。
私の父親は怒ると見境がなくなり、正気を失ってすぐ手が出る人で、よくひっぱたかれた。なので今でも少し恐怖感がある。もちろん認知症で耄碌しきっている今は、普段から鍛錬している私にもはや暴力では抗し得なくなっているけれど、それでも怖さを感じることがある。

体罰で未だに強烈に覚えていて嫌悪しているシーンが有る。校則が厳しい私立高校に通っていた頃、髪型検査があり、違反していた生徒が検査役の教師に少し悪態をついた。そしたらその教師は教室の生徒達の目前で生徒に殴る蹴るの暴行を加えた。その様子は明らかに教育や指導ではなく、生徒に反逆されたことに対する怒りの発露でしかなかった。私はまともに直視できず、かと言って諫止するような勇気もなく、暴行が行われている間、ずっとうつむいて早く終わってくれるよう願うことしかできなかった。
その教師に対しては恐怖と嫌悪感を抱くことすらあれ、尊敬の念など抱きようなかった。今でも軽蔑している。

私も運動部系の部活動を経験しているが、勝利至上主義からは縁遠い、ある意味ぬるい環境だったこともあるのか、部活中に体罰を受けたことはない。ただ、二回だけ先輩として体罰を加えたことがある。いうことを聞かなかったりグズグズしてる後輩をアイアン・クローしたり、蹴飛ばしたりして、今でもそれは後悔している。

部活において後輩として尊敬できた人たちは、口先だけでなく自分から率先して苦しいメニューを後輩と共にこなしていた。同じキツイ事をやりながら頑張れと励まされては、手の抜きようもないし、なんとか付いて行こうと必死にならざるをえない。その姿に教育されたのか、私もOBとして指導するときは出来る限り同じメニューをこなすよう頑張っている。もちろん模範を示せるように技量の研鑽も続けている。それがあるからこそ後輩たちも指導を受け入れてくれるものと思っている。

私はとある道場に長年通っているのだが、そこの師匠は常に私に対して敬意を持って接してくれる。必ず「〜君」と敬称をつけて私の名を呼び、呼び捨てにすることはない。それどころか常に私から何かを学ぼうとされる。若輩者の私の言うことを無下にせず、気持ちよく聞いてくださる。私ももちろん尊敬の年を抱いており、師匠の真似をして道場では目下の者であっても呼び捨てにはしないし、汚い言葉は絶対に使わない。
私が指導するときのモットーは「やって見せ、言って聞かせて、させてみて、誉めてやらねば、人は動かじ」、「できたら褒める、できねど諦めない」、「しつこく同じことを繰り返して取り組ませる」、「必ず出来る」「去る者は追わず、来る者は拒まず」などである。体罰などの入る余地はない。

逆にべからずとしては「なんでこんなこともできない?」と相手を誹る、「何回同じ事を言わせる!」と相手を萎縮させる、「お前才能ないよ」と可能性を詰む、「やる気ないなら辞めろ」と言外に退路を断つ、などで、いずれも己の指導技量不足を棚に上げる、手抜きである。
「こんなことも出来ない」のは「こんなこと」の本質をわかりやすく説明し、実行させられるほどには自分が理解していないから。
人は誰も直ぐにできなくて当たり前なのだから、「何回も同じ事を言う」のはむしろ指導者の義務。難しいことを要求しているのだから当たり前である。
「才能」などに頼るのなら指導者など不要。
「やる気ない」のはやる気を起こさせない(萎縮とかさせてる)指導者の責任。
指導自体が指導者の成長を促す貴重な過程なのだから、体罰などの安易な手法に頼るのは指導者の能力不足や怠けにすぎない。

私が一般的なスポーツの指導者を見てて不思議に思うのは、太ってる人が多いことである。現役には及ばずとも、選手とともに汗をかいてプレイしてれば、でっぷりとした腹にはならないはずだ。その姿そのものが自分を棚に上げる怠惰を示しているように思えてならない。

ほとんどの芸事の師匠は死ぬまで現役である。死の直前まで技量の研鑽を続け、若者が及びもつかない魔法のような技量を示してくれる。その姿から見れば現役を引退したプロスポーツ選手のたるんだ顎や腹には違和感を覚えてしまう。

私が指導者として究極だと思うのはある師匠の姿である。それは途方もなかった。その人はあれを直せ、ここをこうしろなどとは指導をしない。ただ相手をしてやるだけ、自分の姿や態度を見せるだけ。それで本当に弟子が上達していくのである。あまりにも師匠が正しすぎるために、自分の歪みや至らなさを嫌でも自覚して正されていくのだ。師匠を相手にしている間はとても気持ちいいが、その後に他の先達を相手にすると、どうもうまく行かなくなる。それで気持ちよさを求めようとするうちに、自然と上達に向かうのだ。
その姿からすれば、私などはまだまだ未熟以前の段階だなと、いよいよ指導という行為について敬虔にならざるをえない。