Look at the Bright side of things

Anderson's Blog - since 2005

コツなど

色々と習い事をしてきた中で得たことをメモ。

初心のうちは、肘から先はないものとして、手ではなく、肘を操作する。
肘を使おうとすると肩が動くようになる。肩を動かすようにすると、背筋が働き始める。 最終的には背筋と丹田を繋げ、切先と直結する感覚に至る。

倒れ込まない。
倒れ込みは腰が引け、手打ちのもととなる。手足一致のまま、極めて緩やか、スローモーションのような打撃が出来なければ、それは倒れ込んでしまっている証拠。 但し、矯正は至難。単なる身体操作だけに留まらない様々な要素が必要になってくる。

敵を下から仰ぎ見ない。
これも腰が引ける一因。かと言って反り返らない。体の勢いと手が別れる元となる。 首をすっと立てて、遠くの山を望むようにするのが正しい。

間合いに近づいてから攻防の方途を探ったり、決断を下すのでは遅すぎる。
敵と対することを決意した瞬間から必殺・必勝の勢いで望むべき。

撃尺の間に至ってからは、基本的には威力を発生させずに間合いを詰めてはならない。
踏み込み終わってから撃つなど愚の骨頂。それは完全に足や腰が伴っていない手打ちだし、敵の好餌になるだけ。

技術よりは決意、そして勇気。
疎かにするべきではないが、身体操作術は二の次。「勝つためにどうするか」であって、「どうするか」だけにこだわってもしょうが無い。

刃筋を意識や動作の中心とするべきではない。
刃筋を意識するのは正しいが、最も力が集約するところに刃筋を置くだけのこと。料理で使う包丁の使い方と大差ない。

得物を握らない。
掴むとか包む程度にしておく。打撃の瞬間すら握りしめてはならない。指や手のひらを網のごとくイメージして、その編みが自然と締まるように体を使う。それでいて強いインパクトに耐えられるように心理や進退を工夫する。

余談だけれど、私は「気付き」って言葉にありがたみを感じないし、それを頻繁に使うようでは軽いと思う。稽古においては「悟り」でなければ意味が無い。剣道でも言われる上達過程を示す言葉である「三磨の位」においても「習い」「稽古」「工夫」とあって、この内「工夫」は「悟り」と言い換えられる。上達とは、悟りからさらに次の習いを繰り返す過程である。「気付き」なんぞ悟りに至らなければ何の意味もないし、ただの勘違いや自己満でしか無いかもしれないのだ。そんなものは心の中に留めておいて、吹聴するのは謹んだほうがいいだろう。
そして悟りを得てしまえば、その時の「気付き」などは未熟さの表れでしか無くなってしまうので、尚更語る必要がなくなる。悟りに至ってからは、もう次のサイクルに入っているので、過去の「気付き」にはますます意味がなくなる。悟りですら過去のものである。
したがって、ここに書かれていることは人に伝えられるレベルのものでしか無い。私にとってはもはや追い求めたり念頭に置くよう心がけるものではない。
登ってきた時に使った手がかりは、当然だが、これから登ろうとする高みには使えないからね。