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カリ城

多くの人が傑作という「カリオストロの城」だが、おれは映画一作めの方が好きだ。宮崎駿の手になるルパンはルパンの皮をかぶった別物とすら思えてしまうのである。一番最初のテレビシリーズにおいても宮崎駿が関わった頃のよりは初期シリーズのけだるい感じの方が好きなのである(第一シリーズで一番好きなのは「脱獄のチャンスは一度」)。つまり、宮崎駿が好きではないのだ。それでもルパンが面白いのは間違いないけれど。
この間、いけない方法で見たBSアニメ夜話の「あしたのジョー」の回で、宮崎が描線を単純化したとの話を聞き、さもありなんと思ったものだが、今、地上波デジタルのハイビジョンで「カリ城」を見て、これはダメだ、とすら感じた。俺はサンライズ系の「ガンダム」とか「イデオン」に心酔してきたからかも知れないが、描線に躍動感が無いアニメを受け付けないのだ。一つの絵としてみた場合、描線に意味が込められていない絵は全く評価に値しない。動きでカバーするつもりなのかも知れないが、どうしてもキャラクターが薄っぺらくなってしまうのは避けられない。TVの二画面機能を使ってカリ城と一作めと並べて視聴してみると、一作目の方が生き生きしている。

アニメーターの躍動を封じ、それが産み出すダイナミズムを尊重するより、副作用としての乱雑さを拒否する宮崎が独善的な男だというのは、以後の作品を待たずして「カリ城」そのものに現れている。
一作目では好き勝手やってピンチに陥るルパンに対し、サブキャラクターの次元達は一旦袂を分かつ。結局助ける事は助けるのだが、それでも主人公と対立してケンカする。不二子は最後までルパンを利用し、ふてぶてしい限りだ。銭形はルパンを捕まえる事しか考えていない。
ところが「カリ城」では次元以下のサブキャラクターは、あくまでルパンの配下である事を止めようとしない。不二子はおろか銭形ですらルパンの支援者であり続ける。この構図は以後の宮崎作品に通じている。主人公側の人間関係にほとんど葛藤がないのだ。サブキャラクター同士の抗争も無いし、裏切りも無い。裏返せばそれは自分への反逆を認めないという事だと思う。それはアニメーターの自由を封じ、描線の躍動を抑圧した事に繋がるのだろう。
物語における悪役のあり方は、作者の悪の一面を象徴している筈である。レプカカリオストロ伯爵、ムスカにも自分の世界の中では他人を信じず、許さず、抑圧する気質が現れているようにおもえる。そんな奴だと思って「カリ城」を観てしまうと宮崎の投影である自由気侭なルパンがムカついてしょうがない。

もっとも「カリ城」は何も考えずにボケッと見てればとても面白いのだ。偉そうに文明とか環境とか教育とか言い出さなければ、警戒する必要も無く、上の論評もどうでも良くなるのだけれどもね。