Look on the Bright Side of Things

Anderson's Blog - since 2005

記憶の主観性

この間の週末、かつて所属していた大学のクラブの夏期合宿にOBとして参加させて貰った。今でもずっと身体を動かしているので、現役生ほどではないがまだまだ練習についていくことは出来る。ただ、最近のガキ共はちょっと線が細く、覇気が足りないところがある。そこを補ってやるのがOBの務めであろう。現役は嫌がってるだろうけどね(おれも現役の時、OBはウザかったもん)。
合宿場所は20年近く前、私が現役1回生のときの初めての合宿で訪れた土地だ。冬場はスキーで人気の場所なのだが、夏は学生の合宿先として人気がある。当然宿舎や体育館もあちらこちらにあるので、宿泊先は昔と同じ所ではないだろうと思っていた。
それでも場所が思い出の地であるだけに、行きの列車の中で昔のことを思い出さざるを得ない。血反吐を吐き、汗まみれでしごきにあえいだ体育館。練習が終わったあとは、先輩のあとに退出しなければならないのに、先輩より先に宿舎に戻らなければならない。ダッシュして先輩達を追い抜いて戻る宿舎への道の長かったこと。合宿の中日、スイカ割りをした体育館裏の広場。緊張と疲労で食欲が湧かないところを無理に喰らった昼飯。辛かった分、明瞭な記憶として昨日のように思い出される。
現場に着いてみてビックリ。まさに昔訪れたのとまったく同じところだった。あまりに懐かしいので、昔の記憶をなぞるようにあちこちうろついてみた。
ところが、だ。体育館と宿舎の間のあれほど長く感じた道は、ものすごく短く、スイカを割った場所は広場というには狭く、辺りの風景も20年の間の変化があろうにせよ、こんな所だったかなと、記憶と微妙に違っている。
考えてみれば、練習でへとへとになった状態でダッシュするわけだし、逆にしんどい練習の前には体育館に向かう足取りも重かったろうから、道も長く感じたのだろう。それがそのまま記憶として刻まれているのだろう。
つまり記憶には必ず主観が作用すると言うこと。そして主観が作用した記憶を元にして動く我々は、無矛盾たり得ないということだ。そんないい加減な存在を絶対のものとして崇めるような愚かなことをすると諸人の迷惑になる。
学生達を指導する際に以前教えたことと違うことを言ったりするのも、それはそれで当然なのである。教えたことも忘れるし、教えられたことも忘れる。しょせん成長は自らするしかないのだから、教えたことは手がかり程度にしてくれればいいかなと思っている。