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Anderson's Blog - since 2005

阪神淡路大震災の記憶

Mattさんのリツイートを見るまで、今日がその日だとすっかり忘れていた阪神淡路大震災twitterでも少しつぶやいたが、当時の記憶を綴っておく。地震大阪市内で経験したのであまりたいした話ではない。
1995年といえば、私はまだ社会人2年目。大阪市内に住んでいて、実家は木造建築の二階建て、築40年ほどで、私は二階で寝起きしていた。地震の当日、1月17日は東京出張を控えていた。前日か、前々日に大学の同期と集まって旧交を温めたばかりだった。その中には兵庫県民が2人ほどいた。
その日の午前5時30頃、何故か目が覚めてしまい、何をするでもなく布団の中でボーッとしていたが、ゴーッという音が聞こえ、直後にものすごい衝撃を感じた。テレビ台の上に於いてあった20インチワイドブラウン管が一瞬浮き上がったのを見た。衝撃のあと揺れが襲ってきたが、今までに経験したことのない激しい揺れに狼狽し、何が起きているのかも判らず、布団の上に立ち上がったはいいものの、どうすることも出来なかった。
揺れの時間はどれぐらいだったのかハッキリ覚えていないが、15秒ほどだったそうだ。体験している最中は永遠に続くようにも思えた。
気がつくと、さっきまで寝ていた枕の上に本がぎっちり詰まった2m高の本棚が倒れてきていて、もし寝ていれば下敷きになっていた。立ち上がっていたのは幸いだった。
揺れが収まってから一階で寝ていた両親の様子を見にいき、無事を確認した。不思議なことにあれほどひどい揺れにもかかわらず、食器棚やタンスは倒れていなかった。
テレビを付けてみたが、神戸の方で火事が起こっている以外の情報は殆ど得られなかった。早朝にもかかわらず、地震のせいですっかり目が覚めてしまい、眠気は全く吹き飛んでしまっていた。
初めての出張だったために、どうしたものかよく判らず、とりあえず出社することにしたが、交通機関が全てストップしており、父に頼んで車で送ってもらった。途中、大きな余震が2回ほど起こり、地面が裂けるんじゃないかという不安を感じながら勤務先に着いた。
勤務先には総務課長のみ出社しており、共同で後片付けを始めた。事務所はビルの6階で、揺れが増幅されたのか机という机の引き出しが全てあいており、資料棚は全て倒れて前の机に倒れかかっていた。朝ではなく昼に地震があったらケガ人や、ひょっとすると死人が出たかも知れなかった。
時間が経ってなんとか5人ほど社員が集まったが、その人数では重い資料棚をどうすることも出来ず、簡単な片付けを行って、あとは昼頃までテレビを見ていた。だんだんと被害の甚大さが報告され始め、高速道路が倒れていたり、駅やビルが倒壊しているのを観てその規模の大きさに戦慄した。この時点ではまだ死者数についてもよくわかっていなかった。今のようにネットも発達していなかったため、情報はテレビと新聞ぐらいからしか得ることが出来なかった。
幹部の話し合いの結果、その日の業務は無理と判断され、昼過ぎに解散となったが、そのころには地下鉄が一部動いていたと記憶している。いつも使っていた路線が使えなかったため、別の路線の駅まで歩く途中、ひっきりなしにサイレンが聞こえていた。途中、なんどか兵庫の友人宅へ電話をしてみたがずっと不通だった。まだ携帯電話が普及する前だから公衆電話からである。後になって彼らは無事だったことが解った。
翌日、予定を一日ずらして東京出張となったが、新大阪駅が使えず、名古屋まで近鉄で向かい、そこから新幹線に乗った。東京に着いてから地下鉄に乗った際、他の乗客の新聞の見出しに死者数が2千人を超えると書いてあり、これはとんでもないことになったなと唸った。
東京本社でミーティングに参加したが、前の道路をダンプが通過するなどしてビルが揺れると緊張して嫌な気分になった。この症状は今でもまだ続いている。ちょっと揺れるとすわ地震かと思ってしまうのだ。