Look on the Bright Side of Things

Anderson's Blog - since 2005

40年前あたりのこと

なんか最近、なんとなく1970年代初頭が話題になることが多いような気がする。てなわけで当時幼児だった頃の記憶を書き残してみる。極私的なものだから何の参考にもならないと思うが。

  • 当時の自家用車はトヨタカローラハッチバック。業務用車を兼ねていた。その車で俺は親父に轢かれたことがある。親父が運転する車が発進する際に自転車でその前に飛び出し、そのまま車体の下に巻き込まれたのである。俺は幸い無事だったが自転車はパーになってしまった。
  • 三輪トラックがよく走っていた。
  • 大阪市営地下鉄は改札の自動化が完了していなかった。最寄り駅では依然として人が改札を行なっていた。
  • 幼稚園に上がる前ぐらいだったか、家族旅行の時におたふく風邪を発症し、俺と、俺の看病をする父親は居残りに。今考えると親父は旅行に行きたくなかったのだろう。家で留守番をしながらマジンガーZの超合金で遊びつつ、おやじの作ったサッポロ味噌ラーメンを食べていると地震にみまわれた。記憶に残る一番最初の怖かった地震
  • 幼稚園の頃、親に50円をもらって駄菓子屋で仮面ライダーのプラモ(極めて簡単なもの・接着剤いらず)を買って作るのが大好きだった。プラモ作りは結構好きだったが、生来不器用でセッカチだから接着剤まみれになって仕上がりはいつも汚かった。それが嫌でだんだん作らなくなった。プラモの思い出
  • 幼稚園では英語教育が行われていた。といってもスタンダップ、シットダウン、グッドモーニングと言った簡単な単語だけ。発音もカタカナ英語的だった。他で覚えてるのはピアニカ、カスタネット、木琴、ハーモニカで、これは自分専用のものを持たされていた。お話の読み聞かせは退屈だったので反抗し、よく外で立たされていた。粘土工作も専用粘土を持たされていた。
  • 5歳頃には新聞が読めた。どうしてそうなったのかあんまり覚えてないのだが、家には百科事典や図鑑が置いてあり、ルビが振ってあったのと、姉や兄が読み聞かせてるうちに漢字の読み方を覚えてしまっていたらしい。今でも覚えてるが、とにかく「なんでー?」と両親と姉、兄に尋ねまくる子どもだった。あんまり聞きすぎて面倒がられて、それで本を与えられるようになったのかもしれない。
  • それでいろんな知識を漁ってたお陰で可愛げのないガキだった。祖母が「雷がなってるからおヘソ隠しや」と言っても「あれはただの電気で自然現象や」とバカにするし、幼稚園で織姫と彦星の話を聞かされても「ベガとアルタイルやんけ」と冷笑する、サンタクロースも信じていない、本当に嫌なガキだった。幼稚園の先生にはよく怒られた。
  • 幼稚園で、父の日には紙粘土で灰皿を作らされた。原型作って色を塗って、表面のコーティング?は大人がやってくれる。喜んでくれるだろうと親父にプレゼントすると受け取ってくれたが「なんでこんなん作るんやホンマ困るわ」「次から(釣りの)浮き作ってくれへんかな」と言われた。親父は子どもが生まれる前にタバコをやめていたのである(子どものためではなく、なんとなく嫌になったから)。当時の大人の男はタバコを吸うのが当たり前であったから、幼稚園は何の疑問も持たずに灰皿を作らせていたのであろう。それにしても曲のない、馬鹿正直な父親である。
  • 幼稚園の入園式では上級生たちが作ったと思われる紙の手提げ袋に、お菓子を入れたものをプレゼントとしてもらった。そのお菓子は確かガム状のキャンディーだった。チューイングキャンディというものらしい。シガレットチョコも入ってた気が。
  • その頃のお菓子の定番は、マーブルフーセンガムにフィリックスガムハイエイトチョコ、シガレットチョコ、かっぱえびせん、サッポロポテト、10円で買える飴玉、粉ジュースなどだったような。たまにゴーフルを貰うと缶を独り占めにしようとして兄と喧嘩になった。ロッテのコーヒーガムも好物だったな。懐かしのロッテガム一覧
  • お菓子は小遣いをもらって近所の駄菓子屋で買う。くじとかで探偵セットを当てたかったが、いつもハズレでアメかガム玉。探偵セットには日光写真とか溶ける紙、あぶり出しセット、不思議な煙(動画。でもこんなに上等な装幀ではなく、ペラペラの紙だったような)などが入ってた記憶がある。単なる在庫処分をセットと偽っていたのだろうか。みかん水もよく飲んだな。
  • 近所のたこ焼き屋の価格は8個100円。20個200円。3時のおやつがわりによく買いに行かされた。容器は経木。その上に緑の半紙を巻いてある。今の発泡スチロールの容器と違って水を吸い取るので、時間が経っても表面があまりしなっとならない。
  • あと、今でも懐かしのお菓子ということで紹介されることが多い、ポン菓子(動画)。定期的に行商に来ていた。お米と砂糖とお金を渡すと家の前でドカンとやってくれる。俺は大好きだったけど母が嫌っていてなかなか買わせてくれなかった。どうも非衛生的だと思い込んでいたらしい。高熱、高圧で爆発するから綺麗に殺菌されるんだけどな。
  • 大阪市内には公設市場がまだまだたくさんあった時代。毎日の食事や雑貨も近所の市場で買っていた。母の買い物に連れられるとあちこちで店主やご近所さんと話し込むので待たされてイライラした。
  • 正月はほぼすべてのお店が閉まるため、事前に食べ物を買い込んで、三度の食事もお節がメインだった。なにか切らしてもお隣に借りるしか無かった(お隣が帰省してなければ、だが)。だから街は本当に静か。自動車もほとんど走らず人通りも少なかった。
  • 秋になると大阪市内でも赤とんぼの群れが飛んできていた。まだまだ自然が残っていたのである。あまり見かけなくなってしまったのは小学校に上がる時分ぐらいだろうか。
  • 家のトイレは水洗だった。大阪市は下水道化が進んでいたらしい。大をする際は下半身裸にならないとできない子だった。便器は当然和式。昔の名残なのか、便所内には男性用小便器と和式の両方が置かれており、木製の扉で仕切られていた。
  • トイレットペーパーはロール紙ではなかった。いわゆるチリ紙でB5大の紙が重ねて置かれていた。トイレットペーパー騒動は1973年のことだから、その頃にはトイレットペーパーが普及していたわけで、我が家だけのしきたりだったのかも。今でもティッシュとかトイレットペーパーをチリ紙と呼ぶことが多い。
  • 幼児の頃はTVの中に小さな人がいると思っていた。TVはカラーテレビだったが大きな箱型だったから、中に何か入っててもおかしくないと思えたのだろう。チャンネル切り替えはダイヤル。チャンネルを回す、という表現が普通だった時代。
  • 自宅には当時珍しかっただろうクーラーが付いていた。スイッチを入れるとブオーンといううるさい音がしていた。
  • 記憶に残る最古の洗濯機は脱水用絞り器付きだった。自動脱水機能がなかったらしい。洗濯槽の横に挟み込みローラーが付いていてそこに衣類を通してハンドルを回し、余分な水を搾り取るのである。
  • 夏の風物詩は氷屋さん。リヤカーだったか軽トラだったかで配達してて、お店屋さんとかの前で専用ノコギリでシャーコシャーコと氷を切り出していた。削り屑の細かい氷をもらって友達同士ぶつけ合いっこすると楽しかった。冷蔵庫に製氷機はついていたものの、そんなにたくさん作れるわけでなく、コンビニで手軽に氷が手に入るような時代ではなかったのだ。
  • 冷蔵庫は庫内冷凍庫式。今のように大型のものではなく、全高は130cmぐらいか。
  • 家にはお櫃があって、炊飯器はガス式。今のように保温能力はなく一旦炊き上げると保温ジャーかお櫃に移す。お櫃に入れたほうが吸湿するため、ご飯がむせず、冷ご飯になっても美味しかった。
  • 家庭用電子レンジなどない時代、冷めたものを温めるには焼くか蒸す、あるいは煮るしかなかった。そういう育ちなので、今でも冷えたものを温め直さないで食べることが多い。
  • 料理の保管は乾いてもいいものはそのまま水屋へ(両親は今でも食器棚とは言わずに水屋と呼ぶ)。乾くとよくないものは布巾をかぶせる。その他、食卓の上に置きっぱなしにして、上に蝿帳(はいちょう)を被せておいたりした。サランラップの出番は殆ど無かった。