Look on the Bright Side of Things

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戦後話

終戦時8〜9歳だった父親から聞いた話を幾つか。

  • 父親の家では犬を飼っていたが、ある日忽然と姿を消した。どうやら食糧難からか誰かに殺されて食べられてしまったらしい。
  • 飼い犬は雌犬で、いつの間にかお腹が大きくなり子犬をたくさん産んだ。父は喜んだのだが祖母が邪魔になるからとまとめて川に流してしまった。明治生まれということもあるのか、祖母はそういう粗野なところのある人だった。10歳ぐらいから奉公に出て、その頃からタバコを吸い、ゴキブリは手づかみで始末していた。
  • 進駐軍が大阪にも入り、大阪城近くにあった砲兵工廠に残る銃弾の処理に困ったのか、何か祝い事があったのか、山の方に向けてパンパカ撃ち始めた。当然それは落下することとなり、そのことで少なからぬ死傷者が出た。父の家付近にも何発か落ち、それで頭を割られて死んだ人を見たという。進駐軍相手に訴えることもできず、処罰を求めることも出来なかった。
  • 父は三重に疎開していたが、ずいぶん虐められたらしい。向こう気が強かった父はイジメに刃向かってよく喧嘩もしたそうだ。
  • 住んでいたところは大阪市内だったけれど、夜8時ごろになるとほとんど明かりもなく、真っ暗闇になってしまっていた。バスもその頃が最終。今では考えられないことだ。
  • 近所には今は埋め立てられてしまった川が流れていたのだが、よく子どもや人が落ちては溺れ死んでいたそうだ。当時の常識では落ちた方が悪いのであって川沿いには柵が設けられることもなかった。
  • 父は学校かどこかに他の子どもと集められて日本が無条件降伏したと聞かされたが、「無条件降伏」の意味がよく解らず、条件もつけられずに降伏出来たのだから勝ったのと同じだと思い、敗北したのだとは理解出来なかった。日本が負けるなどあり得ないと信じ込んでいたのだった。
  • 戦中戦後の食糧難の時期に父は毎日毎日カボチャ(関西ではナンキンと呼ぶ)ばかり喰わされ、すっかりナンキン嫌いになってしまった。その影響からか、俺もあまりナンキンの煮物が好きではない。

母は戦中戦後に3〜7歳ぐらいだったためか、ひもじかったことの方が印象強く残っている。

  • 空襲を体験しており、その際、燃えながら落下してくる焼夷弾や火災にあった家屋で燃料用に貯蔵していたコークスが燃えるのが美しく見えたという。
  • 貧しかったため食べるものが無く、母と一緒になって道ばたに生えている食べられる草を取ってきては、おかゆや汁に加えて飢えを凌いでいたという。
  • 当然、栄養が足りず、顔に疥がたくさん出来、通い始めた学校ではひどくからかわれて辛かったそうだ。それでも後年、勤め先の社内報で美人社員と紹介されたので、その時の恨みは晴らせたことだろう。


2人とも、子ども時代は惨めだったと口を揃えて言う。しかし母は父に向かってあんたはまだ良かったと詰る。確かに父からは飢えてひもじかった話を余り聞かないし、母はナンキンすら食べられなかったのだから、それはそのとおりなのだろう。
何にしても生きてたからまだマシだった。地上戦が行われて戦渦に巻き込まれていたら、ひもじいどころの騒ぎではなかっただろう。戦争反対。