Look on the Bright Side of Things

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戦下のレシピ

表題の本を今読んでいる。作者は斎藤美奈子氏。十五年戦争時の婦人雑誌などからレシピを拾いつつ、当時の悪化していく食糧事情とそれをもたらした背景について述べている本だ。

両親が終戦時に7、8歳だったので、戦中戦後の思い出はよく聞かされた。疎開先で虐められたとか、空襲時に起きた火事で、燃料として家に貯めていたコークスが赤々と燃える様を忘れられないとか、あんまりいい話はない。

親父は疎開先で敗戦を迎えた。児童達を集めた集会で日本が無条件降伏したと聞かされたのだが、低年齢のこと、無条件降伏の意味がわからず仲間内では「条件も付けられずに降伏したんだから、負けたのとは違うんだな」と思っていたそうだ。日本が負けるわけがないと無邪気に信じ切っていたのであろう。

やはり食糧事情については苦しかったようで、戦後、親父は毎日カボチャばかり食わされるのですっかりカボチャ嫌いになってしまった。カボチャばかり食わされたのはカボチャはよく育つため、戦中戦後に奨励作物としてよく栽培され、手に入りやすかったためだ。なので戦中戦後を過ごした人にはカボチャ嫌いの人が少なくない。

オカンの方は家が貧しかった上に子だくさんだったせいもあって、まともな食事にはありつけず、毎日雑草いりのおかゆばかり食べさせられたせいか、顔中に吹き出物がでるし、着ている服も毎日同じものを着させられていたため、学校では虐められて惨めな思いをしたそうだ。当然おやつなどは手に入らなくて、そのころの恨みからか、私ら子ども達にはお下がりなどは着させなかったし、いつもお菓子を食べられるようにしていてくれた。

今では当たり前のように食べられる白米だが、日本人が毎食のように白米を食べるようになったのは朝鮮を植民地にしてからの話。朝鮮から収奪した安い米が大量に輸入されたお陰だ。それまで、特に農村では白米は売るためのもので、食べるものとしては正月とか特別な時のためだけに少しの量を貯めることしかできなかった。

戦前の日本は今と違って工業生産力も弱く、技術力も低かった。生糸の輸出で食っていたし、冷害が起きると飢饉が起きるような貧乏国だったのに、なにをとち狂って戦争なんか挑んだんだろうね。日露戦争で勝っちゃったことが、間違いの元だったのか。

戦下のレシピ―太平洋戦争下の食を知る (岩波アクティブ新書)